私らしく生き、私らしく終末を迎えるために

「老いを遊び、命を全うする」——尊厳ある在宅医療の実現に向けて

Ⅰ. 隔離・管理から、地域融合・自立への転換

 私たちは今、高齢者人口の指数関数的な増大という現実に直面しています。この社会において求められているのは、従来の画一的な「隔離・管理型福祉」から、多様性に富んだ「地域融合・自立型福祉」へのパラダイムシフトです。

 現代の日本において、人として最低限の生活を保障するという基礎的な福祉の目的は、既存のサービスによって充足可能となりました。しかし、世界一の長寿を誇る我が国において、高齢者が「自ら生きる必然性」を感じ、長年蓄積された叡智を活かし、社会への責任と貢献を果たす機会は、いまだ著しく制限されています。  「高齢者」というステレオタイプな枠組みの中で、役割や関係性といった様々な対象喪失体験を重ね、社会やコミュニティーから断絶し、不安の中で終末期を送らざるを得ない——。この現実は、今のところ否定しがたい事実です。私たちは、この現状を変革しなければならないと考えています。

Ⅱ. 「治癒」の限界と、「生活」という希望

 これまでの医療重視のサービスは、心身共に充実した青年期を「正常」とし、老化に伴う機能低下を「異常」と捉え、「疾患」という範疇のアプローチですべてを解決しようとしてきました。  しかし、完治可能な疾患でない限り、老化に伴う心身機能の低下は避けて通れない現実です。プラグマティズム(実用主義)的な社会の中で効率だけが強調され、「生まれて死す」という有機的生物が持つ本来のいのちの循環性が失われれば、人は終末期において「死の不安」と同時に、終わりのない「生きる不安」を持つことになります。

 病院や施設で過ごしても、治癒・改善が見込めないというのが、老化であり、末期の病状です。だからこそ、それらの現実を受容し、残された時間をいかに生き生きと有意義に送るかという視点の転換が求められています。「療養」と「生活」は表裏一体です。病院という「非日常」ではなく、在宅という「日常」の中でこそ、その統合が可能になると私たちは信じています。

Ⅲ. 人間の尊厳——「老いを遊ぶ」という境地へ

 基本的生活水準が維持されている限り、今まで慣れ親しんできた生活の場を奪わず、愛着のある土地、家、家族、地域の中で生活を送ること。これこそが、人の尊厳を維持する上でもっとも基本的な要件です。自らの人生に誇りを持ち続け、最後まで生き抜くことこそが、まさに人間の尊厳といえます。

 「私らしく生き、私らしく終末を迎えること」への支援。  そして、「老いを遊ぶ」という境地に至ること。

 これこそが、私たちの考える高齢者福祉のゴールです。  癌の臨床における末期の宣告も、単なる絶望や医療からの疎外であってはなりません。それは「残された時間をいかに自分らしく生きるか」へと力点を移すための、新たな人生のフェーズへの転換点であるべきです。社会的サポートを得られないまま、次々と訪れる喪失の中でただ死を待つのではなく、最期の瞬間まで「生」を謳歌する権利が、すべての人にはあります。いずれ生物は終わりがあり、世代が変わってまいります。ですから、医療はもともと、自分らしい人生を維持するための「緩和と延命」に尽きるのではないでしょうか。どのような状況の方でも、老若関係なくご本人のご希望に限りなく寄り添うことが基本です。価値のない命はないと言ってよいと思います。

Ⅳ. 「あきらめ」から「意志ある選択」へ —— 近しい人の思いやりとして

 かつて在宅医療は、病院での高度な医療的介入の手立てがなくなった時、いわば「あきらめた人」が消極的に選ぶ場所と捉えられがちでした。  しかし、現代におけるその意味は大きく変容しています。在宅医療は、住み慣れた場所で、最期まで自分らしくあり続けるための「人生の仕上げ」の場であり、自らの意志で選び取る**「積極的な選択肢」**へと進化しました。

 この選択を支えるために、私たち医師や看護師がいます。  私たちは、白衣を着た権威的な管理者としてそこに君臨するつもりはありません。私たちが目指すのは、患者様を支えるご家族や、長年の友人が注ぐ温かな眼差しと同じ、**「近しい人の思いやりの中の一つ」**として存在することです。

 不安な夜にそっと寄り添う手のように。  日常の風景に溶け込みながら、専門職としての「医療」という安心を、生活の中に静かに添え続けること。

 「あなたらしさ」を守るための選択が、決して孤独な戦いにならないように。私たちは、あなたの人生の「近しい伴走者」として、思いやりをもってその「仕上げ」の日々を共に歩んでまいります。