盛夏のもてなし
たくあん鉢のこと
夏の茶事の話から始めた。

暑い盛りに、どうやって客に涼を感じさせるか。茶碗に水を張って茶巾を浸したまま持ち出し、客の前で絞る。梶の葉を水指の蓋に見立てる。夜明け前に始めて、暑くなる前に終える朝茶事。どれも「涼しいですよ」と言わずに、音と光と水の気配だけで涼を届ける工夫だ。よくできている。感心して、そこから話が転がりはじめた。
わび・さびとは何か。考えてみれば、あれは裕福な人の美学である。粗末な茶碗を「侘びている」と評価するには、名物唐物を知っていなければならない。不足の美を美として認識できるのは、充足を知っている者だけだ。堺の豪商、武将、大名。庶民のほうにあったのは、いき、きっぷ、通といった、もっと明るくて対人的な美意識だった。
では利休は何を残したか。調べてみると、マニュアルらしいものは何も残していない。『南方録』は死後百年経ってから世に出た編纂物で、『利休百首』も江戸中期以降のものだ。我々が「利休の思想」として語っているものの大半は、後世が再構成した像である。「道」という呼び名にしても、精神修養の体系として名乗りはじめたのは明治以降だったりする。
つまり、どこかに純粋なものがあって、それが制度化によって失われた、という話ではないらしい。最初から、政治と金と鑑定の場だった。ただしその傍らに、いつの時代も制度の外に出ていく人がいた。売茶翁のように、道具を自分で焼き捨ててしまう人が。
良寛の話にもなった。印可を受けながら寺を持たず、弟子も取らず、五合庵に一人でいた人。彼は確かに自分で中心を見つけた。しかし体系を残さなかったから、誰にも継承されていない。凧に「天上大風」と書いてやった話だけが残っている。中心を見出す人というのは、たぶん毎回、自分で見つけるしかないのだろう。
──と、ここまでかなり高いところを飛んでいた。禅とか、無常とか、精神性とか。
そのあたりで、自分が昔、陶器を焼いていたことを思い出した。
主に志野と灰釉。茶碗を作ろうと思って作ると、これがまったく駄目だった。狙うと出ない。無限に近い組み合わせの中で、まれに、景色の良いものができる。窯を開けるまで分からない。開けた瞬間に「来た」と分かる。作ったはずなのに、来た、という受け取り方をしている。
教えてくれるという先生がいた。いつも見に来ては、「またたくあん鉢かね」と言って帰るだけだった。技術的なことは何も言わない。褒めもしないし、直しもしない。今にして思えば、言葉で伝えられることの限界を知っていた人だったのだろう。数を焼くしかない、という段階は省略できない。
そして、隣で作っていた女性がいた。
私は景色だの味だの、火の当たりだの釉の縮れだの、そういうことばかり考えていた。悩みに悩んで、食事も喉を通らない時期だった。その隣で、彼女は言った。
「あたしゃ水が漏れなきゃいいの」
頭の中が割れた。
臨済の話に、修行僧が足を打ってしまった拍子に悟るというのがある。あれと同じ種類のものだったと思う。誰かが教えようとして言った言葉ではない。彼女は自分のことを言っただけだ。教えるつもりがなかったから、構えて受け取ることができなかった。まともに入ってきた。
そして、突き詰めればそれは正しい。水が漏れないという条件を満たしたうえでしか、景色も味も何も乗らない。用を果たさない器は、どれだけ景色が良くても器ではない。
茶室の涼から始めて、わびの階級性を通り、利休の不在を確認して、良寛まで行った。超越的なものを追いかけていたつもりだった。それが最後、たくあん鉢と、水が漏れるか漏れないかの話に着地した。
高いところを一周して、気がついたら、いつもの窯場の前に立っていた。
器は、東日本大震災でほとんど割れた。まぐれで出たものは、二度と作れない。同じ土と同じ釉と同じ窯を用意しても、あの一つは戻らない。

ただ、割れなかったものもある。良し悪しを見分ける目と、轆轤を引く手の感触だ。あれは十年二十年空いても、座って土を上げれば戻ってくるという。
そのときにできたものが、また、たくあん鉢だったとしても。

