絹と、布と、人の温もりと

― 養蚕・織物の歴史と、暮らしの中の布をめぐる覚え書き ―
ある高齢の方が、こんなことを話してくださいました。今はこのあたりも栗林ばかりになってしまったが、昔は一面の桑畑で、養蚕がとても盛んだったのだ、と。その一言から始まった話は、いつのまにか、絹の歴史をさかのぼり、庶民の色をめぐり、そして人が人を思う心へとたどり着きました。ここに、その道すじを二部に分けて書きとめておきます。
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第一部 絹と織物の歩んだ道
お蚕さまと桑畑

蚕(かいこ)は、もはや自分だけでは生きていけない生き物です。野生の蚕を人が数千年かけて飼いならした結果、成虫になっても飛べず、餌さえ自分では食べません。人の手がなければ命をつなげない、いわば人と一体になった虫です。中国では新石器時代にはもう飼われていたとされ、日本には弥生時代、大陸から養蚕と製糸の技術が伝わりました。
律令の時代になると、絹や糸は税として朝廷に納められ、事実上のお金のように国の骨格を支えるものになりました。絹は、はじめから特別なものだったのです。
養蚕農家は、家そのものが蚕の都合で建てられていました。屋根裏や二階に蚕棚を何段も組み、風通しと温度を一日じゅう気づかう。桑が最もよく伸び、葉が柔らかく大きくなるのは春から初夏です。ですから一番よい繭がとれる春蚕(はるご)が養蚕の本番で、この時期は家じゅう総出、毎朝せっせと桑を刈り、「お蚕さまが起きている間は寝られない」と言われるほどの忙しさでした。人々が蚕を「お蚕さま」と敬って呼んだことに、その暮らしの手ざわりがよく表れています。
日本の養蚕が絶頂を迎えたのは昭和のはじめ、一九三〇年ごろでした。生糸は日本一の輸出品となり、農家の四割ほどが養蚕に関わったとも言われます。しかしその直後の世界恐慌で繭の値は暴落し、やがて戦争、そして戦後の化学繊維の登場が決定打となって、養蚕は坂を下るように衰えていきました。桑畑が栗林へと姿を変えていったのは、この長い下り坂の果てのことです。
生糸・真綿・紬 ― 一本の糸の生まれ方
ひとくちに絹と言っても、繭からどう糸をとるかで、まったく別の布になります。
繭を煮て、細い糸口を数個の繭からいっしょに引き出していくのが生糸(きいと)です。長く連なった繊維がとれ、なめらかで光沢のある上等の絹織物になります。
いっぽう、二匹で作った玉繭や、穴のあいた繭など、生糸にならない「くず繭」を煮て、袋のように引き伸ばして綿(わた)にしたものが真綿(まわた)です。ここは間違えやすいのですが、真綿は木綿ではなく、れっきとした絹です。ふわふわと軽く、空気を含んで暖かい。
その真綿から、指で少しずつ引き出して撚りをかけ、手で紡いだ糸が紬糸(つむぎいと)です。太さが不揃いで節ができ、それで織った布が紬(つむぎ)です。もともとは、出荷できないくず繭を使った農家の自家用の普段着でした。素朴で丈夫、洗うほどに肌になじむ。結城紬や大島紬がその名で知られています。捨てられてもおかしくなかった繭から、これほど味わい深い布が生まれたのです。
聖なる錦と、庶民の染め
文様を織り出した絹 ― 錦(にしき)や金襴(きんらん) ― は、聖なるもの、高貴なもののための布でした。正倉院の宝物、仏像を飾る天蓋や幡、経典を包む布。唐草は生命の連なり、鳳凰や龍は瑞祥を表し、文様そのものが意味を担う記号でした。だからこそ仏の世界を荘厳し、天皇の権威を示すにふさわしかったのです。
では庶民の布に文様がなかったかというと、そうではありません。手段が違ったのです。庶民の衣は長らく麻で、のちに木綿が加わりますが、その文様は「織り」ではなく「染め」で表されました。藍の型染め、絞り、そして絣(かすり)。糸を括って染め分け、織ることで文様を浮かび上がらせる。織りの錦がとほうもなく高価だったのに対し、染めははるかに手が届きやすい。同じ文様でも、それを生み出す手間と費用が、聖と俗の境を静かに分けていたのです。
南の島の布 ― 狭い土地の、凝縮された技
沖縄や奄美の織物は、限られた島の土地で、素材の乏しさを技の精緻さへと転じた見事な例です。芭蕉布は、糸芭蕉という植物から糸をとりますが、着物一反におよそ二百本もの株が要り、糸を一本ずつ結んでつなぐ気の遠くなる手間がかかります。八重山上布や宮古上布は苧麻(ちょま)から蜻蛉の羽のように薄い布を織り、大島紬は泥染めと締機(しめばた)という執念のような工程から緻密な絣を生みます。読谷山花織は、色糸を点々と浮かせて文様を描く。
これらの多くは、かつて税として納めさせられた貢納布でもありました。美しさと労苦が分かちがたく結びついている ― そこに、南の島の布の奥行きがあります。
忘れられた絹の、よみがえり
近ごろ、古い在来種の蚕が見直されています。その代表が小石丸(こいしまる)です。繭が小さく糸も少ないため、大量生産の時代にいったんは姿を消しました。ところが皇室のご養蚕で守り継がれてきたこの繭こそ、正倉院の古代裂を復元するのに欠かせないものだと分かったのです。効率を求めた近代の絹糸が、かえって光沢もしなやかさも失っていたのに対し、小石丸は「天女の羽衣」と呼ばれる繊細さを保っていました。
また、天然の色をもつ黄金色の繭も再び注目されています。染めなくとも、その繭自体が金色に輝く。大量に作って染めるやり方への、静かな揺り戻しです。どちらの話も根は同じで、効率と均質を極めた近代が切り捨てたものの中にこそ、本当の豊かさが眠っていた、という気づきなのです。
第二部 布と人とのかかわり

織るのは、誰の手だったか
蚕を飼い、糸を紡ぎ、布を織る ― この一連の営みは、古くから女性の仕事でした。「男は耕し、女は織る」という考えは制度にも組み込まれ、税として納める布は、家の女性たちの労働で作られていました。神話の織姫から、農家の機織り、そして近代の製糸工場に集められた工女たちまで、「糸と布は女の手」という一本の線が通っています。
ただ、その傍らにもう一つの筋がありました。西陣のような高級織物の世界、産業として名声と富を生む織りの現場では、男性の専門職人が前面に出てきます。同じ「織る」でも、暮らしの中の無償の務めは女性に、貨幣と名を生む専門職は男性に ― そう分かれていたのです。女性が黙々と織り続けてきたものが、価値をもち産業になった途端に男性の仕事として立ち現れる。布の歴史は、そういう構造も静かに映しています。
それでも、色が欲しかった
庶民は、豪奢な錦には手が届きませんでした。江戸の世には、華やかな色を身につけることを禁じる触れさえ出て、許されたのは地味な茶や鼠、藍ばかり。けれど人々は、その制約を逆手にとったのです。
藍は、染める回数によって、淡い瓶覗(かめのぞき)から、限りなく黒に近い紺まで、無数の濃淡をもちました。一つの色を、深さの方向へ掘り下げていったのです。茶や鼠にも数えきれぬ種類を見出し、洒落た名を与えて、その微妙な違いを粋(いき)として楽しみ、競い合いました。「四十八茶百鼠」という言葉が、その豊かさを物語ります。
そして、それでも鮮やかな色への憧れは消えません。高価な紅(べに)は、着物の裏地や袖口の、動いたときにちらりと覗くところにだけ忍ばせました。表は慎ましく、内側に密かな華やぎを隠す。「裏勝り」と呼ばれるこの美学には、制約への従順と、色への渇望とが、なんとも人間らしく折り合っています。買えなくとも、足元の草木 ― 茜や刈安、栗の毬さえも ― が、その土地の色を与えてくれました。乏しさの中でこれほど豊かに色を求めたことに、人の心の芯を見る思いがします。
生活に密着しすぎて、見えなかった美
これらの布の美しさに人々が気づいたのは、明治を過ぎてからでした。藍の絣を織った女性たちは、自分が美しいものを作っているとは思っていなかったでしょう。それは務めであり、日々の必要でした。美は、目的として掲げられたのではなく、暮らしの結果として滲み出ていたのです。
美として気づかれるためには、むしろ生活から一度切り離される必要がありました。近代化が手仕事を過去のものにしていったとき、日常だったものが「失われゆく何か」として初めて眺められた。滅びかけて、はじめて美しく見えたのです。やがて柳宗悦らの民藝運動が、名もなき職人が実用のために作ったものにこそ健全な美が宿ると説き、「用の美」という言葉でそれを掬い上げました。青森のぼろが「BORO」として世界の美術館に収まっていくのも、この延長にあります。
けれど、ここには切なさも伴います。美として発見されるとは、それがもう生活ではなくなったということでもあるからです。誰かの野良着だった布が、鑑賞され、値のつくものになる。生きられていた布が、見られる布になる。救い上げられると同時に、暮らしからは離れてしまうのです。
真綿の暖かさは、人の温もりそのもの
最初にうかがった話に、戻ります。亡くなりそうな方を、真綿の布団に寝かせてあげた、という話です。
真綿は、糸にならなかったくず繭から生まれます。捨てられてもおかしくなかったものを、煮て、指で引き伸ばして綿にする。その柔らかさが、一番軽く、一番暖かく、そして一番大切な人の、一番大切な時に掛けられました。痩せて骨の浮いた体を、重さで苦しめることなく、そっと温もりだけを渡す。あれはただ暖かい布だったのではなく、暖かくしてあげたいという心が、そのまま形になったものだったのだと思います。
また、継ぎ接ぎを重ねた「ぼろ」の上で、子が生まれ、人が息を引き取ったとも聞きます。晴れの錦ではなく、幾世代もの体温を吸ってきた一番身近な布の上で、人の一生の始まりと終わりが迎えられた。真綿の布団が「特別を用意する心」だとすれば、ぼろの上での誕生と看取りは、「いつもの布に包まれて」というもう一つの温度です。
洒落も、素朴も、真綿の暖かさも ― 突き詰めれば、みな人が人を、あるいは自分自身を大切に思う心のあらわれでした。糸を紡ぐ手も、藍に染める手も、継ぎを当てる手も、旅立つ人に一番よい布を掛けようとする手も、すべて誰かを思う手だったのです。布の話は、はじめから終わりまで、人の温もりの話だったのだと思います。
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人は、与えられたものが乏しくても、いえ、乏しいからこそ、そこに心を込めずにはいられない。その心の温もりが、布という形をとって、幾世代も受け継がれてきました。桑畑がいつしか栗林に変わっても、その心だけは、かたちを変えながら、今も誰かの手から誰かの手へと、静かに渡されているのだと思います。

