人々と魑魅魍魎の世界
雨上がりの水の郷にて ―― 小川芋銭と、そばに居たものたちの記
雨上がりの農道を歩く。湿地に近いその道は、まだ水を含んで黒く光り、路傍の草からは水滴が落ちる。靄がひくく漂い、蛙の声と水鳥の羽音のほかは、しんと静かだ。この季節、この風景に立つと、決まって頭をよぎるものがある。小川芋銭の絵だ。
芋銭が魑魅魍魎を描いた画家であることを思えば、雨後の湿地に彼を思い出すのは、たぶん理屈ではない。あの絵から立ちのぼってくる湿った気配が、いま足元にある空気とそのまま地続きだからだろう。
湿地の住人たち
芋銭の世界に出てくるものを数え上げてみると、ほとんどが水際の生き物であることに気づく。代名詞となった河童はもちろん、カワウソ、イモリ、山椒魚、蛙。乾いた山や空を主戦場とする天狗や鬼は、めったに主役にならない。彼の世界の中心はいつも、水でも陸でもない、その中間の曖昧な領域だった。
代表作〈水魅戯〉では、蓮の葉をかぶったカワウソと蒲の穂をかかげたイモリが、語らうように顔を見合わせて笑い、その周囲では立ちのぼる靄の中で河童・鳥・山椒魚・蛙が戯れている。まるで百鬼夜行のようでいて、しかしそこには夜行の禍々しさがない。ただ、水辺の生き物たちがのびのびと在るだけだ。
これは偶然ではなく、彼の暮らしそのものから来ている。生涯の大半を牛久沼のほとりで農業を営みながら暮らした人だから、日々目にしていたのが沼、蓮、蒲、靄の立ちのぼる水辺だった。湿地というのは生態学的にも境界で、水生と陸生の生き物が混じり合い、変態する両生類がうごめく場所だ。卵から幼生、成体へと姿を変えていくイモリや山椒魚は、まさに「あわい」の存在である。芋銭が河童をそれらと同じ地平で戯れさせたのは、変身し越境する生きものたちへの親しみと無縁ではなかったろう。
細密に、そして人のように
芋銭の描き方には、単なる奇抜さを超えた仕掛けがある。もともと洋画を学び、新聞社で挿絵や漫画を描いていた人だから、対象を観察して正確に写しとる目を持っていた。河童やカワウソを描くときも、生き物としての骨格や質感を博物画のような精度で捉えている。彼の妖怪は「生態」を持っているのだ。
ところが、その細密に観察された生き物が、同時に人のように振る舞う。おもしろいのは、擬人化の方向が逆向きにも感じられることだ。人間くさい仕草をさせているというより、生き物の側に「もともと心があった」ことを写しとっているように見える。だから戯画的にデフォルメして笑わせるのではなく、真顔で、精密に、彼らの内面を描いてしまう。精密であればあるほど、その妖怪たちが実在しそうに、隣人のように迫ってくる。そこが不気味さと同時に、たまらない愛らしさを生んでいる。
晩年の〈浮動する山岳〉では、渦巻く雲海に浮かぶ奇怪な山容が、カラスの頭や翼のように見えるダブルイメージになっている。しかも近年になって、芋銭自身の横顔まで山の形に描き込まれていたことが発見された。西洋のだまし絵が「気づかせて驚かせる」ために描かれたのに対し、芋銭の隠し絵は表現したい思想を視覚化したもので、驚かせることが目的ではない。だからこそ隠されたイメージは八十年以上誰にも気づかれなかった。見せびらかす仕掛けではなく、自然と人と妖が溶け合う思想そのものを、そっと画面に潜ませたのだ。
なぜ、気味悪いものに愛情を注げたのか
普通なら気味の悪いものとして片付けられるものに、芋銭はなぜこれほどの愛情を注げたのか。彼の生い立ちをたどると、いくつかの糸が見えてくる。
一つは、境遇の重なりだ。武家に生まれながら、廃藩置県で父が禄を失い、三歳で牛久に帰農した。生まれつき虚弱で農に向かず、都会と農村のあいだを行き来した半端者でもある。水でも陸でもない河童、人でも獣でもない存在――どこにも分類されないものへの親しみは、自分の立ち位置と響き合っていたはずだ。愛情を注ぐというより、同類として見ていた、という言い方のほうが近いかもしれない。
二つ目は、思想の背景だ。明治の一時期、彼は虐げられ名もなく働く農民を主題に漫画を描き、社会主義者・幸徳秋水の影響を受けたとも言われる。見過ごされ下に置かれたものへ向ける視線が、そのまま水辺の生き物へも注がれた。ホトトギスの表紙に妖怪・豆腐小僧の滑稽な姿を描いたことにも、権威や見てくれに関心のない気質がよく表れている。
三つ目は、教養の土壌。南画(文人画)の末裔であり、老荘思想に親しんだ。老荘の自然観では、美醜も、有用と無用も、人と物の境目も、絶対のものではなく溶け合っている。牛久沼の碑に刻まれた「誰識古人画龍心」――昔の人が龍を描いて自然の測り知れなさを表したように、芋銭は河童を描いて万物の根元たる"道"を問うた。気味悪いものと美しいものを区別しないまなざしは、彼の哲学そのものだった。
そして四つ目、いちばん地味で、いちばん大きいのが日常だ。毎日その水辺を見て暮らす人にとって、河童も蛙も山椒魚も、想像の怪物ではなく生活圏の隣人だった。恐怖は距離があるから生まれる。朝晩ともに在るものは、やがて愛嬌のある同居人になる。芋銭の妖怪の温かさは、この「共に暮らした」時間そのものから来ている。
貧しく、暗く、だからこそ
当時の牛久沼や水郷は、集落もまばらで、夜は本当の闇だった。電灯が農村に行き渡る前の湿地の夜は、月と行灯のほかに光がなく、沼から靄が立ちのぼり、水音と蛙と夜鳥の声だけが響いた。水はけの悪い低湿地は決して豊かな穀倉ではなく、暮らしは洪水と隣り合わせだった。
けれど、その乏しさと暗さこそが、芋銭の妖怪世界を成り立たせた土壌でもあった。妖怪は明るく豊かな場所には生まれない。何がいるか見えない闇、水と陸の境が曖昧な湿地――そういう「わからなさ」の残る場所にしか棲めない。厳しい暮らしのなかで、人々は河童の話を語り継いだ。子どもを沼に近づけないための戒めとしても、労苦のなかの笑いとしても、伝承は生活の必需品だった。
そして芋銭は、その乏しい土地をあえて仙境として描き直した。俗中の仙人、仙境の画人と呼ばれた通りに。豊かでないからこそ、俗世の欲得から遠く、自然と妖と人が対等に交わる別天地たりえた。乏しさは静けさに、暗さは想像力の余白に、心細さは精霊たちの気配になる。あの牛久沼の頼りない夜がなければ、芋銭の河童は生まれなかった。この土地の「貧しさ」こそが、彼の最大の画材だったのかもしれない。
常陸の水郷、河童の通い路
芋銭の河童は、牛久沼だけのローカルな精霊ではなかった。彼が取材した土地は牛久沼のほか、利根川、土浦、水戸といった水郷に及ぶ。そしてその一帯には、切れ目なく河童伝承が分布している。
かつて牛久は、牛久沼と霞ヶ浦の水系が接し合い、それぞれに棲むカッパが出会える町だったと地元に伝わる。水と緑のネットワークが町を覆っていた時代の話だ。霞ヶ浦の東、行方の梶無川には欄干の四隅に河童像を据えた「手奪橋」が架かり、斬られた河童の手を接いだと伝わる「手接神社」が小美玉の与沢に今も祀られている。「日本に一社 かっぱの神様」として、手の病や技倆上達を願う信仰が続いている。那珂川水系の涸沼にも、深い淵の水底に機織る姫が棲むという「織姫塚」の伝承が残る。海水と淡水の混じる汽水湖――水でも陸でも、淡でも鹹でもない、境界そのものの湖だ。
芋銭はこの水郷の真ん中で暮らし、河童を描き、〈霞ケ浦〉と題した絵まで残した。彼の河童は、この常陸水郷の伝承世界を丸ごと吸い上げた存在だった。
鳥獣戯画ではないもの
動物が擬人化して遊ぶ絵といえば鳥獣戯画が思い浮かぶが、芋銭の世界はそれとほとんど正反対だ。鳥獣戯画の兎や蛙や猿は、人間社会の営みを演じさせられた風刺の役者で、笑いの矛先は人間に向いている。動物はそれを映す鏡にすぎない。
芋銭は逆だ。彼の河童やカワウソは、人間を風刺するための代役ではない。水辺に本当に棲んでいる何ものかを写しとろうとしている。同じ蛙一匹でも、鳥獣戯画の蛙は相撲に勝ってガッツポーズをする愉快な奴だが、芋銭の蛙は大自然の不思議の一部として、ただそこに在る存在だ。鳥獣戯画が「実在の動物を人間っぽく描く」方向なら、芋銭は「伝承の妖しいものに、実在の生き物のような肉体を与える」方向で、擬人化のベクトルがむしろ逆を向いている。

そばに居たものたち
そして、これが芋銭の妖怪世界のいちばんの核心なのだと思う。彼の魑魅魍魎は、人を驚かすためにいるのではない。ただ、そばに居るのだ。
日本の妖怪画の多くは、人と妖の対立や恐怖を主題とする。百鬼夜行は人の世界に侵入してくる異形の行列であり、幽霊画は恨みや無念を核に持つ。妖怪は「向こう側」の存在で、人と妖のあいだには越えてはならない境界が引かれている。
芋銭の河童たちには、その境界の緊張がない。カワウソとイモリは顔を見合わせて笑い、河童は荘子に「道はどこにありますか」と尋ね、江に浮かんで悠々と楽しむ。誰かを脅かそうという素振りが、そもそもない。彼らはただ、そこで生きて、遊んでいる。芋銭自身が『河童百圖』の自序に「遊戯自在」と記した、その言葉のとおりに。
見方を変えれば、芋銭は妖怪を怖さから救い出した画家だ。畏れの対象だったものを、いとおしさの対象に描き替えた。妖怪がそばに居られたのは、人と自然の境目がまだ柔らかく、暗がりと湿りと余白がまだ生活の中にあった時代だったからだろう。かつては水系がネットワークのように町を覆い、牛久沼と霞ヶ浦のカッパが出会えた。それが宅地化で分断され、カッパにも出会えなくなったと、地元の人は言う。芋銭の絵の楽しさの底に、ほのかな寂しさが差すのは、その世界がもう戻らないことを、描いている本人がどこかで知っていたからなのかもしれない。
雨上がりの農道で
雨上がりの湿地に近い農道を通ると、この時期、この風景が頭をよぎる。そして思う。そこに、私たちの生活もあったのだ、と。
芋銭が描いたのは、遠い空想ではなかった。靄のなかに何かがいて、それを気味悪がるのでも崇め奉るのでもなく、隣人として受け入れて暮らす――そういう生活の実感そのものだった。水辺の暗がり、蛙の声、頭上を渡る鳥、足元の黒い水。そのすべてが、人と、人ならぬものとの、柔らかな境界の上に成り立っていた。
魑魅魍魎の季節に芋銭を思い出すのは、たぶん怖さのためではない。そばに居てくれたものたちへの、なつかしさのためだ。雨後の湿地の道で頭をよぎるあの風景は、失われた通い路の記憶であり、同時に、まだかろうじてここに残っている気配でもある。靄が晴れきらないうちに、もう一度だけ、水面に耳をあててみたくなる。何かが、機を織る音でも聞こえはしないかと。

